仲間よりも聖職者よりも悪魔が真実を語る。真実と現実を前にすると悪魔に勝てないキリスト教『ドント・ヘルプ』
ストーリーはよくあるタイプのものになってしまうのですが、悪魔によるキリスト教批判が面白い映画でした。
若い女性三人のグループがお金を奪うために入り込んだ家の地下に少女が縛り付けられ囚われていた。少女を助け出すサスペンスものかと思いきや、少女には悪魔が宿っており、悪魔祓いをするためにその子の両親が縛っていたというエクソシストものです。
悪魔が話す内容が面白くて、もの凄くなめらかに真実を話していき、それによって周りの人は関係が壊れ、死んでいきます。
悪魔を演じている少女がもの凄くペラペラと流暢に言葉を話すのが見所です。声が心地良い。ラップをやったら凄そう。
目次
仲間よりも聖職者よりも悪魔が真実を語る
他のエクソシストものの映画・ドラマを観ると、悪魔は嘘やそそのかしによって人間を陥れるタイプの悪魔が多かった。人間がサタンによってそそのかされ、知恵の実を食べてしまったところからこうなっているのでしょうか。(余談ですが、知恵の実を食べさせようとしたのは誰かという問いになるとそれは神である、という話もあります)
日本のマンガやアニメでは少し前から悪魔は契約を重視するビジネスマン的なイメージのものが増えました。人間をそそのかすというよりも、契約をすればあなたのメリットはこう、こちらのメリットはこう、とビジネスを持ちかけるような。何の影響でしょうか。『Death Note』もこのタイプですね。
この映画はスペイン映画。この悪魔も契約をする悪魔でしたが、アメリカ映画でよく見るタイプの悪魔ではありません。悪魔そのものも姿を現しません。珍しいことに、悪魔が真実を話します。真実によって人間の精神を追い込みます。
悪魔がただ真実を話すだけで崩壊する人間関係と人間の精神。人間の方が悪魔よりも嘘をついていて、指摘されるとこれまでの関係が一気に瓦解する。
ついには悪魔から「なぜ聖書の話に従わない?」と言われる始末。
この後に続く悪魔の言葉「時は来た。42週間の自由を与えろ」は調べたのですが分かりませんでした。「42週間の自由」は何のことでしょう? 聖書のどこかに登場するのだと思いますが…。
悪魔の言葉に対して登場人物達の「信じるな」という台詞が何度も出てくるのですが、悪魔はほとんどの状況で真実を言っています。
その人にとって聞かれたくない話を「信じるな」と言っているだけです。人間の言葉は空しい。
キリスト教教会への批判(非難)
呼ばれた枢機卿が悪魔祓いを始めると、涼しい顔をして少女(悪魔)がこう言います。
「いいかマリア(主役の女性の名前)。奴(枢機卿)は偽善者だ。父親と同じ。神は父親の行為を見てた。お前が犯されるのをな。だが手を差し伸べなかった」
「お前に落ち度は一切無い。幸せになるべきだ。神が与えた地獄を耐え抜く必要は無い」
「おいでマリア。もう苦しむな。私が救済し、力を与えよう」
この言葉を聞くとどうしても神を信じる気になれません。神は助けてくれなかったのですから。悪魔は目の前に存在し、助けてくれようとしています。
この映画では神を信じられなくなる出来事の連続です。
悪魔は「奴は偽善者だ」「罪人の祈りは効かん」という言葉で、当時問題となったキリスト教教会の性的虐待問題をサクッとナイフで刺すように非難しました。
そのほかにもこの映画は教会内部の形骸化も批判していて、次期ローマ教皇になる枢機卿が「教会も悪魔に毒されている」「聖職者たちは悪魔の存在を信じなくなった。それに対抗する神の力も」「悪魔祓いを行える人が少なくなった」と教会を批判しています。
悪魔が取り憑いた少女の母親は「娘の回復を願い、7年も祈り続けたけど、救いはなかった」と枢機卿に話します。
その娘に「どうして神は私に罰を与えるの?」と訊かれて何も答えられなかった母親は、近くの神父に救いを求めたが「(その娘は)罪深き人類の生けるいけにえ」だと言われ、祈りを辞めた(「生ける生け贄」って意味が二重になっているような…。映画の日本語訳のままです)。
神よりも悪魔を信じた方が良い。悪魔なら契約によって助けてくれる。悪魔は目の前に現れてくれます。教会の神父も助けてくれなかった。それでも神を信じるべきだろうか…?
これまでのザコと一緒にするな
たぶん真剣なシーンなのに笑ってしまったところがあります。悪魔祓いに来た枢機卿に向かって、悪魔が言う「これまでのザコと一緒にするな。私は40の軍団の長だ」という言葉。
さすがに笑ってしまいました。昔の日本のアニメとかゲームでよく聞いた台詞です。この悪魔は四天王の中で最弱なのかもしれませんね。
これに対し、後のシーンで枢機卿は「私の神は1つではない。数百もいる軍団だ」と呼応します。あれ、一神教じゃない…? 日本語訳は本当にあってる?
この映画で登場する悪魔はとても強く、長く生きているようです。枢機卿の祈りに全く動じません。
ちなみに、悪魔の名前は「アモン」です。
アモン(Amon, Aamon)は、ヨーロッパの伝承あるいは悪魔学に登場する悪魔の1体。悪魔や精霊に関して記述した文献や、魔術に関して記したグリモワールと総称される書物などにその名が見られる。
ネーデルラント出身の医師・文筆家であるヨーハン・ヴァイヤーが記した『悪魔の偽王国』、イギリスの地方地主レジナルド・スコットが記した『妖術の開示』、およびイギリスに古写本が残存しているグリモワール『ゴエティア』によれば、40個軍団の悪魔を配下に置く序列7番の大いなる侯爵であるとされる。
また、18世紀頃に流通していたグリモワール『大奥義書』によるとサタナキアという悪魔の配下にあるという。
「サタナキア」の配下。懐かしい名前です。「サタナチア」が『魔法陣グルグル』に出てきましたね。
悪魔への祈りの時に登場する「レビヤタン」とは何だろうと調べてみると、英語読みで「リヴァイアサン」のことでした。
レヴィアタン(ヘブライ語:לִוְיָתָן Livyatan, 発音: リヴヤタン, ラテン語: Leviathan, 英語発音: [liˈvaiəθən] リヴァイアサン, 日本語慣用表記: レビヤタン[1])は、旧約聖書に登場する海中の怪物(怪獣)。悪魔と見られることもある。
「ねじれた」「渦を巻いた」という意味のヘブライ語が語源。原義から転じて、単に大きな怪物や生き物を意味する言葉でもある。
マリアが突然不思議な空間(悪魔が作り出した空間)に置かれるとき、「その獣には7つの頭と10本の角があった…」という祈りが聞こえます。
調べてみると、これは「ヨハネの黙示録」に登場する一節で獣は「黙示録の獣」の事らしい。その後「大淫婦バビロン」の一節へと続きます。
大淫婦バビロン(だいいんぷバビロン)は、ヨハネの黙示録(キリスト教の『新約聖書』の一節、『黙示録』)のアレゴリー(比喩)。大いなるバビロンともいう。
『黙示録』によれば“悪魔の住むところ”であり“汚れた霊の巣窟”である。女という隠語で表されておりきらびやかな装身具を身につけ、手に金杯を持つが、その杯は姦淫による汚れに穢されているという。大淫婦は殉教者の血を流すが、神のさばきによって滅ぼされる。
ハンス・ブルクマイアー作の木版画(1523年)。マルティン・ルターが1534年に翻訳した新約聖書にて。大淫婦バビロンは、7つ首の獣(黙示録の獣)に騎乗する女性として描写されている。
不思議空間では「ヨハネの黙示録」の言葉で祈りが行われていて、どうやら枢機卿の悪魔祓いに対し、悪魔の世界ではヨハネの黙示録で対抗しているようです。
このあたりはキリスト教聖典に詳しい人だと意味が分かるのかもしれません。
[ネタバレ] いつ取り憑いた? 枢機卿のテヘペロが不可解
映画の終盤でマリアが枢機卿の言うとおりにして、神の力を借りて悪魔祓いを完了させます。
これを観てB級映画っぽいからこうやってハッピーエンドに繋げるのか、とやや残念に思っていました。しかし映画を最後まで観るとラストは思っていたものと違います。枢機卿がテヘペロします。可愛い。
それでもう一回見返しても、いつ枢機卿に取り憑いたのか分かりません。
マリアによる悪魔祓いは一応成功していて少女が血(悪魔)を吐いています。悪魔が枢機卿に取り憑いた時を考えると、枢機卿が悪魔に名前を告げられたときあたりですね。
この方向で考えると、マリアの意識が戻った時、少女が枢機卿の首を絞めながら「こいつを始末せねば」と悪魔っぽいことを言うので悪魔かと思ってしまいますが、これは少女本人かもしれません。
少女は悪魔が枢機卿に取り憑いたことが分かったのでしょう。だから「こいつを始末せねば」と言った。日本語訳で「始末せねば」となっていますが、本当は「殺さないと」程度の言葉ではないでしょうか。
少女は悪魔と両親との契約内容を知っていたから悪魔が枢機卿に取り憑く予定なのは知っています。悪魔にとって取り憑く先の枢機卿を殺してしまうメリットがなく、罪人の祈りが効かないなら何もする必要がないことから、この時の少女は悪魔が操っていない。
うーん、でもその後の悪魔祓いで少女はしっかり悪魔が憑いているっぽいのでよく分からないんですよね。
マリアがベッドに縛り付けられ、悪魔が枢機卿の隣にいるシーンの後が全て悪魔が見せた幻だったという解決策ぐらいしか思い付きません。でも映画中にこの説明がないのでこれは除外して良いでしょう。
他には、違う悪魔が枢機卿に取り憑いた、悪魔は祓われたが枢機卿はそもそもああいう人だった(教皇の権力で性的虐待するを楽しみにしている)、悪魔は同時に一人以上に取り憑ける、という可能性も。
マリアの悪魔祓いが成功したのは罪人ではないからという理由でしょう。悪魔は「罪人の祈りは効かん」と言っていますから。同名の聖母マリアを思わせながら、父親を許すシーンがあります。ラストシーンでもマリアは神への信仰を捨てていないのが分かります。…家に忍び込んでお金を盗もうとしましたが。
ストーリーは凡庸だが、悪魔少女の声と演技と教会批判を楽しめた
「ドント・ヘルプ」は原題「El habitante(住民)」。IMDb やAmazonでのレビューを見てもあまり評価の高い作品ではありません。スコア50点ぐらいですね。凡作のスコアです。
確かにプロットはそこまで斬新ではないし、前半のホラー展開は冗長でした。ストーリーはよくあるパターンに属してしまいます。エクソシスト映画はこんな感じのものが多い。
私としては悪魔の少女がニヤッとしながら流暢に真実を話している様子が楽しめました。話し方や声の高さが耳に心地良い。何故か聞きたくなる声です。
少女が「ローマの儀式(悪魔祓い)は久しぶりだ」「罪人の祈りは効かん」と言うシーンは悪魔が格好良すぎます。
あと教会の神父などがヒーローとなるエクソシストもので教会批判をするのは斬新です。
お金を盗みに来た3人組の中で生き残るマリアは日本人っぽい顔立ちで可愛らしく、悪魔の少女も可愛らしい。悪魔の少女タマラは演技が素晴らしかった。
日本の映画だとここまで演技ができる人は観たことがありません。私が日本人なので日本人に対しては演技のおかしさに気付いてしまい、厳しくなっているのかもしれません。海外の映画は演技が下手だとほとんど感じません。
この映画の悪魔祓いは「エクソシスト」というドラマとは違い、しっかりしていました。「死霊館」のレビューでちらっと書いたのですが、ドラマ「エクソシスト」で悪魔祓いをする神父は、十字架を悪魔に見せながらこう言います。
「食らえ!『父と子と精霊は一体』だ!」
…意味が分かりません。決め台詞っぽいのですが、三位一体説を悪魔が聞いたところで何があるというのでしょう?「あっ、そうですか」で終わってしまう話です。
「ドント・ヘルプ」は枢機卿が罪人ですが、悪魔祓いの言葉はしっかりしていました。
キリスト教に詳しい人ならもっと楽しめる作りになっているかもしれません。「ヨハネの黙示録」の内容も知っていた方が楽しめるでしょう。