この映画にメタバースは必要だったのか?メタバースでは何も解決せず現実で行動を起こす。素顔を見せてみんなが感涙って…『竜とそばかすの姫』レビュー
Amazon Prime Video でプライム会員向けに無料公開中の「竜とそばかすの姫」を観てみましたが、私はあまり楽しめませんでした。
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[ネタバレ] メタバースでも素顔を見せないと信頼されない。そのうえ若い女性で外見が良くないとダメ
メタバースの良いところって現実の自分の見た目を切り離せるところだと思っていたのですが、「竜とそばかすの姫」ではその逆方向です。
終盤で素顔を晒さないと信頼されないという話になり、主人公の女子高生「すず(内藤鈴)」が自身の「ベル」のアバターを取っ払って素顔&現実の姿で歌います。
そうすると周りの人が涙を流して感動します。すず自身も涙を流します。私はどうしてみんなが涙しているのか分かりませんでした。
「竜とそばかすの姫」ではメタバースにいる人のアバターをムリヤリ取っ払って現実世界の姿にすると「その人を潰せる」、つまり素顔を晒させれば「メタバースで積み重ねたものが台無しになる」という認識らしい。
人の欲として素顔を見たいというのは分かりますが、私はメタバースは「素顔は関係ない」というみんなの共通認識で作り上げるプラットフォームになると考えています。
LGBTQ、バ美肉おじさん、着ぐるみを被らないと精神的に安心できない人、自分の顔や体にコンプレックス・障害がある人など、現実が生きづらい人にとってメタバースが救いになるはずです。
「竜とそばかすの姫」ではすずが素顔を晒しても、「女子」「高校生」「制服」という属性で "ありのままの私" を見せるのがポイントです。なんで中年男を主人公にしなかったのか。これが細田守の根底にある価値観(偏見)なのかもしれません。
すずのアバターの「ベル」だって若い女性で美人だから気に入って選んだアバターです。
素顔を晒してもすずの顔は「普通の子」と表現されるくらいで不細工ではなく、監督の細田守からは結局「外見が重要だ=ルッキズムは正しい」というメッセージを受け取ってしまいます。
もしすずがもっと不細工な顔だったとして、それでもみんながすずの素顔に関係なく「歌」そのものに感動する、外見に関係なく絆が生まれる、というストーリー展開だったら良かったのですが…。
「美女と野獣」のオマージュもありますが、「美女でなくてもストーリーが成立するのか」が重要です。悲しいことに「シンデレラ」だって美女じゃないと成り立ちません。
あなたは名前を知らないブスが落としたガラスの靴を、わざわざその人がどこにいるか探して渡せるだろうか。
細田守はSNSの攻撃的なコメントが凄く嫌なんだろう
映画中でSNSで人を攻撃する悪口コメント(誹謗中傷)のことがよく描かれます。「変な曲」「気取ってんじゃねぇ」「ルックスは悪くないけど…」。後から手のひら返しをするのですが。
この映画ではそういったSNS上での攻撃的なコメントが嫌みったらしい声で読まれる場面が多く、細田守自身がSNS上での攻撃が嫌なんだなぁと思わせられます。
私もその気持ちは分かります。しっかりした「批判」なら良いのですがそんなのネット空間にはほぼありません。
でも最近思うのは、自分を正当化するために人を攻撃したい人が大半なんじゃないかということ。
現代人の倫理観なんてその程度なんじゃないでしょうか。大ヒットした「鬼滅の刃」を引き合いに出すと、この映画に感動したと多くの人たちが言っていましたが、感動した人が鬼滅の刃の煉獄杏寿郎的な倫理観を持たない・持とうとしないのを見て私は愕然としました。
ただ「竜とそばかすの姫」のようにSNSでの攻撃の醜さを強調しすぎると、「批判(≠悪口)」を聞かず自分にとって気持ち良い空間にしたいというコントロール欲を感じてしまい、かえって器の小さい陳腐な考えに思えます。
自分にとって気持ちの良い空間を目指すと、見たいものしか見ない問題(フィルターバブル問題)、周りがイエスマンだけになってしまうという問題(エコーチェンバー問題)が発生します。王様にはジョーカーが必要です。
異世界ものと同じ展開。この映画にメタバースは必要だったのか?
実は「竜とそばかすの姫」はここ数年流行っている「異世界(転生)もの」アニメ・小説と同じようなストーリー展開です。
異世界もののストーリーを考えると、
- 異世界に転生
- 最初は周りから無下に扱われる
- しかし(無自覚に)力を示すと周りが手のひらを返して擦り寄ってくる。復讐できて気分すっきり
- 異世界ではすぐに人気になれる
- 仲間(or ハーレム)が出来て楽しく暮らす
「竜とそばかすの姫」もこれと同じです。異世界もののような溜飲下げはやや低俗さがあります。
この映画が異世界ものとちょっと違うのは、すずがかなり普通の人っぽく描かれていることと、メタバースは異世界ものよりも身近なこと。
でも実はすずは歌が飛び抜けてうまいので普通じゃない。普通の人はすずのようにはなれない。
「竜とそばかすの姫」のメタバースは素顔・現実の姿が重要で現実の自分に引き戻されるため、現実が生きづらい人の受け皿にならず絶望があります。本来メタバースはそこに差した希望の光なのですが…。
この映画にはメタバースが必要だったのでしょうか? メタバース空間が面白くなさそうに描かれているし、近未来のワクワク感もないし、結局すずが行動を起こすのはメタバースでなくて現実においてです。
私はメタバースの人たちが虐待されている兄弟を助けてくれる展開になるかと思っていました。でもそうはならない。
すず自身についても、良い友達がいるし、父親もいい人だし、メタバースがなくてもすずは何とかなったように思います。母親が亡くなった辛さをメタバースで克服、…ではないんですよね。
この映画はメタバースにフォーカスを当てていますが、何の意味があったのか分かりません。
細田守からの「メタバースではなく現実を生きろ」というメッセージなのかもしれません。でもそれだったら別の映像表現になりそうです。
キャラクターたちの声が籠もっている
ストーリーとは関係ないのですが、この映画を観て最初に思ったのは「キャラクターの声が合っていない」でした。
主人公の女子高生すずが父親との会話でそっけなく答えるシーンがあるのですが、すずの声が暗くなりすぎていて映像の動きとマッチしていません。
「竜とそばかすの姫」では声が籠もっているキャラクターが多く、エンドロールでやっぱり声優じゃなかったのかと確認できました。
声優でなくても声の収録時に指摘してもらえればある程度修正できると思うのですが、監督やスタッフはこれでOKと判断しているわけなので私と感覚が違うのかもしれません。
映画を商業的に成功させるにはファンが多い有名な俳優とかを使うのがいいのでしょう。仕方ない…のかな?
映画の最初のシーン(Amazon Prime Video では 0:03:48~)で、お父さんが「鈴、送っていこうか」、すず「いい」、の後のお父さんの台詞が聞き取れず何て言ったのか考えてしまいました。
「ゆーおあんぁ」?
これはかの有名な劇団四季の声出しメソッドですね。母音だけで練習するという…。
たぶん正解は「夕ご飯は?」です。
最近音声が日本語でも字幕が欲しいです。文字を読んだ方が楽という事がよくあります。
ちなみにAmazonオリジナルの作品は日本語音声でも日本語字幕があって助かります。字幕と音声が少し違うことが多いのですが。
メタバースの設定の作り込みが甘い
メタバースの設定や世界観はよく分からない映画でした。色々と突っ込みどころがあり、いくつか書きます。
- 「竜」が自警団から逃げ回るシーンがあるが、メタバース内で逃げないで、耳からデバイスを外してメタバースから抜け出れば良いのでは?
- 最初はマイクで「ベル」として歌っているが、終盤はマイクなしで歌う
- メタバースとのボディシェアリングのシステムがよく分からない。終盤ではボディシェアリングしながら周りの人と話しているが、視覚などがデバイスの制御下に入るはず
- 終盤で学校の教室ですずが「ベル」として活動をしているのを見られてしまうが、見られてしまったことにすずが全く触れない。背後が見えている?
- 「竜」が自警団となんで戦うのか
- メタバースの人と戦えるシステム自体がおかしい。それはプラットフォーマーが制御すべきだろう
- 「竜」はなんでお城を持っているのか
- 石のお城って燃えるの?
たぶんこの映画はメタバースのシステムのことは考えてはいけませんね。
たぶん10代がターゲットの映画
SNSでの攻撃的な書き込みを「批判があるって事は人気だっていうことだ」と強気の解釈をしたり、映画内の歌がニコニコ動画的なリズムで、たぶん10代がターゲットなんだろうなと感じました。
主人公が女子高生ということもたぶん10代の人なら身近に思って違和感がありません。20代以上だと「何をするにもやっぱり女子高生だな」と感じてしまうかと思います。
すずのお友達のように10代であんな巨大なモニターを持っていれば楽しいだろうなぁ。すずもお友達も良い音楽機材を持っているし…。
高校生で高知から東京に突然行くことになるとお金が気になると思うのですが全く触れられません。裕福な家庭ですね。
「竜とそばかすの姫」は私にとっては何を伝えたいのかよく分からない、異世界もののファンタジー映画でした。音楽とメタバース空間以外の映像は良かったです。