衒学の中で描く「自分の殻に閉じこもるな」。庵野秀明が安野モヨコに救われた物語と見るのが腑に落ちるが…『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の「序」「破」「Q」「シン」を一気観しました。
有り難いです、Amazon Prime Video。プライム会員なので全部無料です。まぁプライム会員自体が有料ですけど、それにしてもかなり安く観られます。
目次
新劇場版以前の作品の知識を使って観てしまうが…
エヴァンゲリオンは色々と派生があるので頭がこんがらがります。
今回、エヴァンゲリオン新劇場版を「序」→「破」→「Q」→「シン」と見ていったのですが、どうしてもTV版やマンガ版などの知識を使ってこの新劇場版で描かれない背景を補完してしまいます。
ですがそれぞれでストーリーが違うため本当は補完せず、劇場版で描かれる事柄のみで今回の「エヴァンゲリオン」の世界観を構築していくのが良さそうです。でもそうすると説明不足というか、描かれない部分が多くて読み取るのが難しくなってしまいます。
結局のところ、新劇場版は新劇場版の内容のみで完結・理解できる内容になってはおらず、TV版など他の世界線のエヴァンゲリオンも知っておく必要があります。そう考えると観るのが結構大変な映画です。
新劇場版では分かりやすく加えられたシーンもあれば、スパッとカットされている部分や、変わったところが色々あります。
碇シンジは母親のことが頭にありません。父親との関係のみを描いていて、シンジと母親の関係はカットされ、こちらは考えなくて良さそうです。
碇シンジの母親の名前は「綾波ユイ」で他の作品での「碇ユイ」から変わり、綾波レイとの関係を分かりやすくしたのだと思います。母親とエヴァンゲリオンの関係はほんの少ししか描かれません。
惣流・アスカ・ラングレーの名字「惣流」は「式波」へ変わっていました。「○波」という名字にしてこの名前に共通する事柄を強調しているのでしょう。
鈴原トウジはずっとクラスメートのままで、エヴァのパイロットになったりせず、死にません。
「破」から登場した新キャラクターの女性の名前がずっと分かりませんでしたが、「シン」の終盤でやっと名前を教えてくれます。真希波・マリ・イラストリアス。「マリア」と呼ばれるシーンがあることから、キリスト教のマリアを思わせます。
「シン」の映像を見るに、碇ゲンドウと綾波ユイを引き合わせたかのが彼女らしい。でも「シン」を最後まで観ても真希波マリのバックグラウンドが説明されず、よく分からないキャラクターでした。彼女も「○波」シリーズと読み取って良いのでしょうか。
加持リョウジもネルフの普通の工作員になっていますし、彼がサードインパクトをどうやって止めたのかも分からない。普通の人間にもサードインパクトが止められるって凄い。「シン」で渚カヲルとの関係がほんの少し描かれますが、さすがにこれだけではよく分かりません。
「Q」では「ガフの扉」など新しい名詞(用語)が連発され、私は「リリン」って重要みたいだけど何だっけとずっと思っていました。「Q」での分からない名詞は「シン」を観ると半分くらいは分かります。
「リリン」は新劇場版では説明されませんが、「リリス」から生まれた「人類」のことらしい(使徒としての「リリン」ではありません)。
新劇場版はそもそも「セカンド・インパクト」の説明がありません。ネルフでの反乱も新劇場版では描かれません。「死海文書」「外典」もよく分からない存在でした。
エヴァンゲリオンの世界は分からない事だらけです。
[ネタバレ] 衒学の中で描きたいのは「自分の殻に閉じこもるな」
エヴァンゲリオンの世界はキリスト教的なものをメタファーにして、何か意味ありげに描かれています。
しかし私はエヴァンゲリオンは「精神的に大人になること(殻に閉じこもらないこと)」をメインにして描かれていると思っています。その周りのものは単なる舞台であり、衒学であり、そこまで重要な意味をなさないのではないか。
「シン」の終盤ではエヴァンゲリオンは「舞台」である事を何度も描いています。
視聴者をエヴァンゲリオンの世界の中へ入り込ませるのではなくて、エヴァンゲリオンを対象化し客観視させたい。「シン」の最後では現実世界を映しています。
エヴァンゲリオンはセカイ系と言われる自分の世界での物事の解決が世界の問題を解決する作品で、TV版で特にこれが顕著です。「僕は存在しても良いんだ」で世界の問題を解決できます。舞台よりも精神が重要なのです。
「シン」の前半は赤ちゃんが登場しそれと同じような綾波コピーが成長する様子を見せる。シンジは成長する綾波コピーを見て、周りの温かい人に触れ、過去に落とし前を付けるという決断をする。大人への一歩。これでもうほとんどの問題が解決されています。
「シン」では碇ゲンドウがなぜ人類補完計画を進めていたかが説明されます。これはTV版のエヴァンゲリオンにはなかったことで、今までの行動はそういうことだったのかと納得できる内容です。説明がないエヴァンゲリオンとしてはこんなに説明してくれるのは有り難い。
ただ内容はとても陳腐なように思えます。碇ゲンドウは綾波ユイに会いたかった。会ってニルヴァーナ(仏教系の用語を使ってしまいましたが、キリスト教では何というのでしょう?「天国」よりも涅槃寂静の方がゲンドウの語る内容にマッチしています)へ到達したかった。
その為に全世界を巻き込んで、ゼーレも利用して、願いが叶う場所「ゴルゴダオブジェクト」に辿り着きたかった。…だけ。
碇ゲンドウは体は大人ですが精神的には子供…というより、世界が狭い。自分を理解して愛してくれるのは綾波ユイしかいないと思っています。自分を客観視して、こんな無価値な自分は子供を愛せないとシンジを遠ざけた。
碇シンジは父親に愛されたいが愛されないので自分を無価値だと考えている。「父さんが乗れと言うなら」「カヲル君が言うから(槍を抜く)」で見られるように、行動の基準が「愛されたい、認められたい」になってしまっている。でも碇シンジを責められません。親の愛情を受け取ってこなかった人間はどうしてもそうなりがちです。
「シン」の終盤ではシンジが「父さんを理解したい」と言って、それに対して碇ゲンドウがATフィールド(=自分の殻)を展開して恐れを覚えます。シンジには父親が絶対の存在ではなくなった。
シンジ「父さんも僕と同じだったんだ」
ゲンドウ「そうだ」
結局、碇シンジと碇ゲンドウの悩みは同じです。自分を無価値だと思っている、愛されたい、周りの人が言うことは分かってはいるがうまく大人になれない。愛されたいが周りの人を傷つけてしまうので近づけない(=山嵐のジレンマ)。だからイヤホンをしてカセットテープを聴き、周りの世界を絶ち、殻に閉じこもった。
「大人になる」というのは意味があいまいな言葉です。色々な要素が合わさって大人になる。「責任を取る」というのもその1つの要素。
アスカ「最後だから訊いておく。私があんたを殴ろうとした訳、分かった?」
シンジ「アスカが3号機に乗っていたとき、僕が何も決めなかったから。助けることも、殺すことも。自分で責任、負いたくなかったから」
総理大臣や議員、周りの "大人" を見ていれば責任を取りたくないことが簡単に分かります。彼らは大人ではないわけです。何か失敗をしてしまったら逃げる。尻尾切りをする。捕まったら謝って逃げる。そして「謝ったからもういいだろう」と逆ギレ。かつて無いほど言葉も責任も軽くなりました。
碇シンジは殻に閉じこもるのをやめ、「落とし前を付ける」という言い方で大人への一歩を踏み出します。人にそう言われたからでなく、自分で選択した。これも「大人」の片鱗です。
ゲンドウ「私は私の弱さ故にユイに会えないのか、シンジ」
シンジ「その弱さを認めないからだと思うよ。ずっと分かっていたんだろう、父さん」
TV版などではグレートマザーの克服というテーマもあったと思いますが、新劇場版ではそういうのは無くなっています。
Amazonでのレビューで「気持ち悪い」が散見されるが…
Amazonのレビューコメントでは「気持ち悪い」という言葉が散見されます。「気持ち悪い」と書いているコメントは「何が」気持ち悪いかを書かない(おそらく自己分析できない)ので何を言いたいのか分かりません。
私はエヴァンゲリオンに登場するキャラクターたちの心に共感でき、もちろん碇ゲンドウにも共感できます。「気持ち悪い」とコメントをする人にとっては私も気持ちが悪い人間かも知れません。
私も碇ゲンドウのように親戚と会ってルールを押しつけられるのが嫌いでした。よく分かります。こうすべしと押しつけられるルールの根拠が分からず、その形式よりも心の方が重要だと思っています。
大げさにイエスを持ち出すなら、戒律を形骸的に守っていても意味が無い。
庵野秀明(シンジ)が安野モヨコ(真希波マリ)に救われるストーリー?
NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で監督である庵野秀明を追い掛けた映像も Amazon Prime Video で公開されています。「さようなら全てのエヴァンゲリオン ~庵野秀明の1214日~」。
これを観ると、TV版エヴァンゲリオンの公開後、彼は鬱になり自殺を考えたようです。アニメ好きのためにアニメを作っていたのに、彼らからTV版の最終回を責められ、2chで自分の殺し方を話し合うスレッドがあった。これで「もうどうでもいいや」と思ってしまったようです。
この感覚は私でも理解できます。たぶん庵野秀明も鬱になりやすい性格なのだと思います。この番組を見たとき彼が煩悩が無くなった仏僧のように見えたのは、鬱を経験したからなのでしょう。
私は庵野秀明さんが話しているのを初めて見たのですが、もっと気力に溢れている、朗らかで明るい方かと思っていました。でもそうではなく、エヴァンゲリオンの碇シンジや碇ゲンドウに通ずる性格をしています。
映画を作っている中で庵野さんが、キャラクターが鬱になってその鬱を抜けてまた鬱になって、という波を説明するシーンがあります。「その波がうまく伝わっていないんだな」と。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を、庵野秀明(シンジ)が片足が無くなってしまった父親(ゲンドウ)と対峙し受け入れ、後の妻となる安野モヨコさん(真希波マリ)と出会って救われたお話、と見るのも成立するような気がします。
真希波マリは何故かよく分からないけど、シンジを受け入れてくれて、そばにいてくれて、応援してくれて、駆けつけてくれる存在。庵野さんにとって安野モヨコさんがそう見えているのかもしれません。
碇ゲンドウにとっての綾波ユイと、碇シンジにとっての真希波マリが対比されています。新劇場版の碇シンジは母親のことはほとんど言及しませんし。
こう見るとかなり腑に落ちるのですが、しかしこれは「スタジオカラー公式WEBラヂオ」によって否定されています。
マリのモデルは誰⁉ エヴァの裏話満載、スタジオカラー公式ラヂオ公開 - AV Watch
「YouTubeラヂオA」では、ネット上で噂になっており、岡田斗司夫氏らも語っている“安野モヨコさんがマリのモデルではないか”説についても言及。
「マリってめっちゃ鶴巻さんのリビドーしか入っていないキャラ。眼鏡で強くてフリクリに出てきてもおかしくない女の子で、セリフもそのまま使われていたりする鶴巻さんの愛に溢れている」「完全に鶴巻さんが創ったキャラクター」
しかし、この言及はキャラクターそのものについての話です。周りの人が「完全に鶴巻さんが創ったキャラクター」と言ってもそのキャラクターを動かしているのは庵野監督です。
脚本を作った庵野監督自身が否定するならこの見方が違うことが確定します。
試してみて良いものを探る制作方法は時間が掛かる
「さようなら全てのエヴァンゲリオン ~庵野秀明の1214日~」で驚いたのは庵野監督自身も何が良いのか、どうしたら良いのかが分からない事。
番組の撮影スタッフ(ディレクター)が「これはどうするのですか?」と訊くと監督が「分からない」と答える事が多いです。
他の人に任せてみて、できあがったものを観て「これはダメだ」と気付く。「ダメなことが分かった」と確認して、たくさんある選択肢の1つを潰して、良いルートを模索していく。この方法だと完成までかなり時間が掛かります。
私も音楽を作るとき、進むルートがたくさんあるのでそれを1つに絞るのが難しいといつも考えています。制作が早い人は選択肢の数が少ないです。選択肢が少ないのは悪いことではなく、それが直感でしょう。
庵野監督は言葉が少ない人なので、撮影スタッフにはもう少し突っ込んだ質問をして欲しかったのですが、ちょっと雰囲気的に難しかったのでしょう。監督が少し気難しくも映っていますし。
私は庵野監督が「面白いか面白くないかをどう判断しているのか」を知りたかったです。たぶん理論的なものではなくて感覚的なもので判断しているとは思いますが。
アングルが面白くないと判断するシーンが多く、常に新しいものを作りたいという熱意は感じました。
これから新劇場版を観る人は「Q」を途中で投げないで
「序」「破」は一本の映画として最後は盛り上がって終わるので見応えがあります。やっぱりエヴァンゲリオンって良いなぁと思えます。「序」「破」を観るとまたエヴァンゲリオンにハマってしまいそうです。
私はエヴァが走るシーンが一番好きです。カッコイイ。ダッシュで足が強調され、足下の道路が壊れる。機体の重さを感じつつも、軽快なジャンプ。「破」では初号機が走る方向を道路を持ち上げて変えていくシーンはシビれました。
私は綾波レイが好きなので「序」「破」のあたりが一番好きです。それにしても「綾波レイ」というキャラクターは素晴らしい発明で、この後のアニメではほとんどで「綾波レイ」的なキャラクターがいます。
「序」「破」はエンターテイメント的に面白いのですが、「Q」は苦痛です。ストーリーが始まるのが映画の後半からで、前半をまるまる使った戦艦での戦闘シーンが本当に退屈でした。
それに「Q」は分からない事だらけ。おそらく「Question」の「Q」で、シンジと視聴者は分からない世界に放り込まれます。「Q」で与えられた断片的な情報ではストーリーを理解するのは無理です。
「Q」のアンサーとして「シン」があり、これを観ると疑問の半分くらいは分かります。
なのでこれから「Q」を観る人は「Q」がよく分からなくても、とりあえず世界の現状はそうなっているとだけ認識しておけば大丈夫です。
用語が分からなくなったら
エヴァンゲリオンの世界観での用語が分からなくなったら、Wikipedia の「新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧」が客観的な説明でとても良くまとまっているので、こちらを確認すると良いです。
「翼をください」が嫌いなのを思い出した
ちょっと話は変わってしまいますが、私は「翼をください」という歌が嫌いです。「破」では盛り上がるシーンでこの歌が流れます。
学校で何度も何度も歌わされた曲ですが、メロディの音高がずっと高いのです。男も女も同じ高さで歌う斉唱でした。私にとっては歌うのが苦しい歌で、苦しいイメージしか浮かびません。この曲を聴くとゲンナリします。
しかも大声で歌わないと教師に怒られます。校内で合唱コンクールなどがありましたが、あれは誰がやりたいのでしょう?
歌詞も苦しみの内容で、これを子供に歌わせていた大人(教師)は恐ろしいです。大人の願望の押しつけです。
今、私の願いごとが叶うならば翼がほしい。... 悲しみのない自由な空へ、翼はためかせ、行きたい
「シン」では「翼をください」が流れなくて良かったです。
久しぶりにエヴァンゲリオンに浸れて楽しかった
新劇場版全部と庵野監督を追い掛けた番組を Amazon Prime Video でプライム会員向けに無料で観られたのでとても有り難かったです。
Amazon Prime Video で観ると字幕が表示でき、これがとても便利です。分からない用語でも漢字で表示されるため、意味を類推しやすくとても助かります。「シン化」は音声で聞いているだけだと分かりません。「進化」だと思ってしまいます。
エヴァンゲリオンの世界観は設定・用語が膨大で、よくここまで構築したなと感動します。これをそこまで重要ではない衒学だとして受け止めるのではなく、それぞれ意味があるとして読み解くのも面白いでしょう。実際メタファーとして意味がありますしね。
「さようなら全てのエヴァンゲリオン ~庵野秀明の1214日~」を見ると、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は初見の視聴者に分かりやすくしたいとのことで、周りの人の意見を取り入れて何度も脚本を作り直しています。
でもエヴァンゲリオンを知らない人が新劇場版のみを見て理解するのは無理でしょう。「序」「破」まではSF・ロボットものとして何とか観られると思いますが、それ以降は世界観を理解していないと置いてけぼりです。
でも私はエヴァンゲリオンの世界観が好きなので楽しかったです。綾波レイとしっかり会話をしているシーンが好きです。